戦後の甘口全盛の中、「からくち三千盛」は、苦労の連続でした。
もっと甘くしなければとても売れない、という声が社の内外から聞こえて参りました。
しかしその中でも、「今の味を変えるな」と励まして下さる方もありました。
この方々に力づけられて「それならば何とか、辛口でしかも口当りがやわらかく飲み易い酒を造ろう」と、努力を続けることが出来たのです。
水みたいに抵抗なくいくらでも飲めて、しかも日本酒独特の旨さがあり、酔いざめのいい酒。
これが最高の酒だと信ずるからです。
江戸時代中期、安永年間に初代 水野鉄治が造り酒屋を現在の岐阜県多治見市に開業しました。
からくちの銘酒としてご愛用いただいております「三千盛」も、明治の中頃までは「金マル尾」「銀マル尾」「炭マル尾」の三種の銘柄で親しまれ、その後「黄金」と変わり、昭和初年に上級酒のみを、初めて「三千盛」と銘うち、今日の三千盛が誕生致しました。
時の主人 水野高吉は、「甘口でなくては売れない」という周囲の声の中理想の「からくち」を求めて精米歩合50%、日本酒度プラス10の、その頃ではたいへん珍しいすっきりとしたからくちの酒を造り「三千盛特級酒」として発売を致しました。
甘口の時代といえども日本全国より「からくち」を探し求めてやまない酒
徒もいらっしゃいました。世の中広いようで狭いもので、偶然にも作家の
永井龍男氏との出会いがこの酒のその後を大きく変えていきました。
永井龍男氏の推薦にて多くの方々に口にしていただく機会に恵まれ「三千盛でなければダメだ」という愛飲家が現れ、全国に点在する有名な料亭や寿司屋などにも置かれるようになっていったのです。
もうかれこれ16~7年近く前のこと、旅先の岡山で、この酒を発見した。
あの頃はまだ、瀬戸の魚がうまくてね。御馳走はすばらしいんだが、酒がいけない。
どれもこれも甘ったるくってすぐあきがくる。
親戚の家だから遠慮なく云うと、東京からきた客だから、いままで出したのはみんな灘の酒で、あとは岐阜からもらった地酒が残っているだけだ、という。
それじゃあ、それを呑ませろと云って、はじめてお眼にかかったのが、「三千盛」なんだ。
世の中に酒呑みは沢山いるが、どうも自分で、自分の呑む酒を選ぶ人がすくない。
ほとんどが、銘柄で呑んだり、銘柄の通った酒を呑まされて満足しているし、呑ませる店の方も、自分のとこは一流の酒を使っていると大きな顔をしているようだ。 宣伝の行き届いた酒はうまいのだと、無条件で信じる習慣があるんだね。
三千盛というのは、どこの酒だ、岐阜県の多治見市に近い笠原町というところの酒だと答えると、ああ地酒だねと、わかったような顔をする人がある。
地酒とは、灘以外の地方で出来る酒を云ってきたのだが、昔と違って、この頃は灘と地方の差別はない。
大手の酒造会社は自家醸造の酒の外に、こういう地方の醸造酒を買い集め、それを調合あんばいして瓶に詰め、自分のとこのレッテルをはって市場へ売り出しているのだから、差別のある道理はない。
こんなことを物識り振って吹聴するのではない。
誰だって御存じの事実なんだが、まだまだ灘以外の酒なら地酒だと、古い云いならわしを鵜呑みにした半可通がいる。
大手の酒造会社が、地方の蔵元から酒を買い集めて、自分の店のレッテルをはる世の中であれば、今日の地酒は自分の蔵で造り、自分の家の名柄で売る、正直一途な酒という意味になるんだ。
三千盛は、甘い酒でなければ売れぬというこの2~30年間、先祖伝来のから口を守って、まやかしのない、正直一途の商売を通してきた酒造りである。
この頃、いろいろな品に「手作りのよさ」というが、この酒こそ手作りの味だよ。
酒が甘ったるくて呑めないという友人の言葉を聞くごとに、それではこの酒を呑んでみてくれと、別に頼まれた訳ではないが、宣伝力皆無の点に同情して肩を入れ、肩を持ってきたのは、その生一本さにほだされたからだが、うれしいことに、銀座でも、赤坂、日本橋でも、東京の盛り場でこの酒を使う店が方々に出来た。
から口の酒と一口に云っても、いろいろあるが、正直一途でごまかしのない三千盛を敢えて愛酒家諸兄におすすめする。まあ一度、是非呑んでみてください。